ポール・オースターなどのアメリカ現代文学を数多く翻訳し、日本の文学シーンに影響を与える作品群を手がけてきた柴田元幸さん。絵本ファンにはエドワード・ゴーリー絵本の翻訳者としてもおなじみです。
このたび2016年ボローニャ・ラガツィ賞を受賞した『本の子』(ポプラ社)を訳されました。たくさんの細密文字が集まって一枚の絵(text art)になり、それが連なって絵本になっている……いっぷう変わった絵本『本の子』の訳を引き受けることになったのはなぜか、編集者の吉田さんにもご同席いただき、お話をうかがいました。
- 本の子
- 作:オリヴァー・ジェファーズ サム・ウィンストン
訳:柴田 元幸 - 出版社:ポプラ社
すべて新訳、柴田元幸訳し下ろし! あの名作が海に、この名作が山に。文章で描かれた世界を、旅しよう。言葉の海を、紙の帆を立てたいかだで旅してきた女の子。彼女は「本の子」と名乗り、少年を物語の世界への旅に誘います。くねくね道に険しい山、洞窟に宇宙――「本の子」と少年が旅する全てのページの絵の中には、40もの名作文学が隠されています。波打つ海には『ドリトル先生航海記』、くねくね道には『ふしぎの国のアリス』などなど。本好きならすみずみまで目が離せなくなる、美しく楽しい絵本です。
●すべて新訳! 物語が詰まった「絵」の不思議
───はじめて『本の子』のページを開いたとき、驚きました。大量の細密文字が一つの絵になり、絵本になっている。しかもすべて児童文学の文章でできているんですね。
柴田:これまでにも本好きの子どもの物語はたくさん書かれてきましたし、本のなかに、ほかの本が引用されている本もたくさん書かれてきました。でも、この本はちょっと、とくべつだと思います。
理由は見てもらえればわかると思いますが、たとえばこの見開きページだけでも『ドリトル先生航海記』『ロビンソン・クルーソー』『スイス・ファミリー・ロビンソン』『モンテ・クリスト伯』『さらわれたデービッド』『ガリヴァー旅行記』『海底二万里』……これだけの海の物語が「海の絵」の中に入っています。
───子どもがいかだで海に浮かんでいる……。よーく見ると「海」がすべて文字!
こんな絵本ははじめて見ました。原作者はどんな方なのでしょう?
吉田:原作者はオリヴァー・ジェファーズと、サム・ウィンストンの二人です。オリヴァー・ジェファーズさんは日本でも翻訳出版されている絵本『クレヨンからのおねがい!』(ほるぷ出版)の作者で、アーティストであり作家。サム・ウィンストンさんもアーティストで、彼の「字の絵」…テキストアート(text art)は世界各国の美術館やギャラリーにおさめられています。
柴田:『本の子』の原書を出している「Walker Books」という出版社は、いい本を出すんだよね。長谷川義史さんが関西弁で訳した『どこいったん』(クレヨンハウス)の作者ジョン・クラッセンが、他の人と組んで作っているいい絵本、テッド・クーザーとの『木に持ちあげられた家』(スイッチ・パブリッシング)やマック・バーネットとの『サムとデイブ、あなをほる』(あすなろ書房)の原書もここから出ています。
───『きょうはみんなでクマがりだ』(評論社)や『すきですゴリラ』(あかね書房)などの原書を出しているのと同じ、イギリスの出版社ですね。
吉田:2016年の秋に出版された『A Child of Books』(『本の子』の原書)は、オリヴァー・ジェファーズと、サム・ウィンストンのお二人によって共同制作されました。
手描きの絵、つまり子どもやいかだ、家などの町並みを描いたのはジェファーズさん。タイポグラフィ、つまり文字で形作られた海や山はウィンストンさんです。
───本に書かれている、お二人からのメッセージがこちらですね。
「私たちは、自分たちの愛する児童文学への思いを物語にしたかったのです。ちょっと現代風のひねりを加えて。それはまるで、はじめて物語の世界に迷い込んだときの魔法を再現するような作業でした ――それも、これまで誰も見たことのない方法で」(オリヴァー・ジェファーズ&サム・ウィンストン)
たしかに、今まで見たことのない絵本です!
柴田:ふつうの意味でストーリーのある本じゃないからね。原題は『A Child of Books』(最後のBookは複数形)だから、いろんな本が詰まっているということですよね。ふつう絵本って……つまり、たいていの物語って一つのストーリーがあるわけだけれど『本の子』にはない。そういう意味でも特殊だと思いますね。
───「本の子」が誘いに来て、物語の世界へ連れ出す……。本文はストーリーというより「詩」みたいですね。
柴田:そうですね。エドワード・ゴーリーの絵本もそうだけれど、「絵本」というジャンルのルールをそのまま守っているいい本ももちろん世の中にはあるけど、暗黙のルールを壊しちゃう本、覆してしまう本のおもしろさは独特なんですよね。
ポール・オースターの小説がおもしろいのは、ある意味では小説の約束事を破るようなところがいつもあるからです。同じように『本の子』は、絵本のルールどおりにできた絵本じゃない。賢い大人や、悪い子が出てくるわけでもない。ふつうの絵本とはまったく違います。
───どんな読者の心をつかむでしょうか。
柴田:どういう人でもいいんじゃないかな。「絵」の中に詰まっている児童文学を全部読んだことがある人が、「ああ、そうだったなあ…」と元の物語を思い浮かべながら読むのもひとつの理想だろうけど、ここであらたな物語に出会うとか、タイトルだけ知っていた本を今から読んでみようかと思う読者もいるだろうし、それもまた素敵なことだと思います。
───柴田さんが手がけた作業についてうかがいたいのですが、たとえば『ドリトル先生航海記』(岩波書店)の井伏鱒二訳のように、すでに広く子どもに読まれている作品のタイトルもありますが、これらはすべて柴田さんがあらたに訳されたのですか?
柴田:もちろんです。ぜんぶ訳しました。
───登場する40以上もの作品を、すべて新訳で訳しおろすのは、ものすごい翻訳量ではないでしょうか。
柴田:そんなことないですよ。長い小説を訳すことに比べれば大変じゃないです。古典ばかりだから、既に読んでいて「あの場面だな」とすぐ頭に浮かぶものもちろんありますし。読んだことがないものは最低前後の文章を読んで、状況をつかんでから訳しました。
昔であれば図書館に行って一冊一冊、該当する場所をひっくり返して探し出して……という大変な作業が必要だったでしょうけれど、今は、古典はインターネット上で全ての原文を読むことができますからね。
───では、翻訳自体は、大変というより、楽しい作業でした?
柴田:楽しかったですよ。まあ翻訳はいつも楽しいけど。
───そもそも、柴田さんが『本の子』を訳することになったいきさつを教えてください。
吉田:実は、柴田さんには、版権がとれる前からご相談していました。きっかけは、海外版権のエージェントで見た『本の子』のプルーフ版(*)のようなものです。それを一目見て、「うわっ、おもしろい!」と思いました。柴田元幸さんが翻訳を引き受けてくださるのならばぜひやりたいと思って、「もし版権を取得できたら翻訳していただけますか」とご相談しました。そうしたら「おもしろそうですね。やります」とほぼ二つ返事で引き受けてくださいました。
(*プルーフ版…事前の宣伝に使うために、最終稿前の原稿を使って、仮に印刷・製本した見本のこと。)
───版権取得は、柴田元幸さんの翻訳ありきだったのですね。
吉田:はい。日本語で出版するなら、中の児童文学をすべて新訳で出したいと思っていました。40以上の作品になるけれど、柴田さんならきっとこの本をおもしろがってくださり、しかも素敵に訳してくださるだろうと思ったからです。