色々な不快感に泣くばかりだった赤ん坊は、いつしか言葉でそれを伝えたり、自ら行動して解消したりできるようになり、またそれに耐える事もできるようになって、次第に泣かなくなっていく。
そんな子どもが、人が、泣くときというのは、気持ちを処理しきれずに心の器から気持ちが外に溢れ出すときなのだろうと思う。
以前「そんなこと言うから仲直りできないんだよ」って子どもに泣かれた事がある。私はちょっとした言い争いの後いつまでもツンツンとしているその子に「まだ怒ってるの?」って尋ねていたのだけれど、その子は私の「ごめんね」という言葉をずっと我慢して待っていたのだろう。その子の仲直りしたい気持ちが溢れ出るまで我慢させてしまった。大泣きよりそういうのが印象に残ってしまう。
子どもって大人が想像する以上に我慢していると思う。そして我慢している事を少し表現できなくなっている。意地を張って素直に言えないときもあるし、泣くとお母さんを困らせちゃう……そのような思い遣りの気持ちから言えないときもある。
だから子どもが泣いたとき、いつもは無理だとしても、できるだけその溢れ出した気持ちを大事にしてあげたいと思う。その意味でこの物語に出てくる僕のお母さんは優しい。
この物語の僕は、大切なお友達がいなくなってしまった事で、不安が心の器から溢れてしまい、またお友達がいなくなった理由を一生懸命考えて、自分の過去の行動にその理由を見いだして後悔の気持ちに満ち溢れてしまって、涙している。ぬいぐるみたちに語りかける言葉はとても素直だ。人は泣いているとき、そして目の前にその人がいないとき、いつもより素直になれる。
一方、ぬいぐるみたちは、なきむし小僧の僕よりも少しだけ大人びている。不安になる理由は、今ここにある出来事のせいではなくて、行く先を想像したせいだし、泣きそうになっても泣かない。でも、物語で描かれてはいないけれど、帰れる場所、望まれる場所がある事を再認識し、帰る事を決めたぬいぐるみたちは、きっと安心の気持ちに溢れて、泣いたのではないだろうか。
やねうらねずみはいつどんな時にどんな気持ちが溢れて泣くのだろう。この物語の終わったすぐ後かもしれないし、ひねくれものだから普通とは違うときに泣くのかもしれない。そうだと溢れさせた気持ちを受け止めてあげるのが大変そうだ。
読み終えてからこのような思いを巡らせ、最後には、よく気持ちを溢れさせる子どもには溢れさせない安らぎを、なかなか気持ちを溢れさせない子どもには溢れさせられる安らぎを、溢れ出した気持ちをなかなか理解してもらえない子どもには理解される安らぎを与えてあげたいなあなんて思った。