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絵本ナビホーム  >  スペシャルコンテンツ  >  インタビュー  >  『おしいれのぼうけん』誕生のひみつ 担当編集者酒井京子さんインタビュー

古田さんから提示された、今の絵本に欠けているもの。

─── 『おしいれのぼうけん』は1974年に発売されてから40年近く、200万部を超える絵本の中でも大ベストセラー作品ですが、酒井さんはどのような経緯でこの作品に関わられたのですか?

ちょうど私が童心社に入って、3年目のときでした。その当時、私は多くの若い女性がそうであるように、今の仕事を続けるべきかどうか、悩んでいる時期だったのです。それでも、3年も続けていればそろそろ自分がどういう本を作りたいのかはっきりさせなくてはならない。でもそれが、どんなものなのかわからなくて…。私なりにあせっていた時期だったんです。
それで、古田足日さんに相談にいったんです。

─── 古田さんに相談されたのはどうしてですか?

古田さんは当時、超売れっ子の作家さんで、児童書を始め、子どもの本の研究や評論をたくさん書いている方だったのです。私は古田さんが書いた『児童文学の旗』に大きな衝撃を受けたのです。実は、それまでは子どもの本って、「子どもだまし」ではないかと考えたりしていて…。恥ずかしい話なのですが、古田さんの本を読んで、私自身の児童書に対する読み方の浅さを指摘されたような気がしたのです。だから、古田さんのところに行ったのは、作品をお願いするというより、これから私がどんな本を手がけたら良いのか、ご意見を聞かせていただこうと思ったのです。
古田さんは私のその切羽詰った気持ちを感じてくれたようで、お会いしたときに「今の絵本に欠けているものがいくつかある」って私に教えてくださいました。

─── 欠けているもの? それは何だったんですか?

ひとつは、異年齢の子どもたちが自然の中で、集団で遊んでいる絵本がないということ。…その頃すでに、子どもたちが集団で遊ぶということがほとんど消えかけていたのです。もうひとつは、子どもたちの生き生きした姿を伝える絵本がほしいということ。それから、これからは女性も外へ働きに出る時代になるだろうから、保育園を舞台にした作品があると良いということだったのです。

─── 古田さんは、40年もの前にそのように考えられていたんですね…。ものすごく今の時代を象徴するテーマに聞こえます。

そうですね。もうひとつは、当時、絵本作りの多くが、作家が文章を書いて、絵描きが絵を描いて、編集者がそれをまとめるという…それぞれが別々に作業をしていたのですけど、古田さんは編集者も画家も作品に加わって、三位一体で本を作っていく、そいういうやり方があっても良いよね、と言われました。

─── それでこの本を書いてくださるように酒井さんからお願いされたんですね。

実は最初、お話をさせていただいたときは、古田さんご自身は書くとは思っていなかったのです。ひと通りお話をうかがった後に、私が「先生、そういう絵本があると本当に良いと思いますが、どなたが書いてくださいますか?」って聞いたの。…編集者が考えるべきことなのにね(笑)。そうしたら古田さんが、当時活躍中の作家の名前を次々挙げてくれて。でも、その中に古田さんの名前はなかったわけ。「先生のお名前がありませんが…」って聞いたら、「酒井さん、こんな難しいこと、ぼくはやれないよ」っておっしゃって…。そのときはその言葉を鵜呑みにして帰って来ました(笑)。でも、その後、古田さんのお宅のそばにある喫茶店によって、同席してくれた編集長と話をしたのね。それで、「やっぱり古田さんにもう一回お願いするしかない」という結論がでたのです。すぐお電話をしたの。「もう一回うかがいたいです」って。それで再度お宅に行くと、古田さんは、「絵描きは田畑精一にしたい」って言って下さいました。

─── 古田さんと田畑さんは以前からお知り合いだったんですか?


▲1971年に刊行がはじまった「ロボット・カミイ」シリーズ
(脚本:古田足日、画:田畑精一)

お二人がまだ若くて貧乏だった頃、同じアパートの上と下の階に住んでらしたそうなのです。お二人の奥様同士がお友達で、一緒に忘年会をやったりして交流をされていたのね。私がお仕事をお願いしたときは、お二人の紙芝居がすでに童心社から出ていました。
そういうこともあって、「文・古田足日、絵・田畑精一でいく」って決まったのですが、それから何回か古田さんのお宅にうかがっても、一向に原稿が進まないのです(笑)。
それもそのはずで、古田さんは当時、売れっ子作家であると同時に、日本で一番遅筆な作家だったのです。

3ヶ月たっても何も進んでいなくて、困り果てているとき、当時の社長がお二人を呼んで、食事会を開いてくださったの。そこで、社長が取材費を渡してくれたのね。それを持って、とにかく現場を見なければって、取材旅行を計画して、3人で保育園に取材に行ったのです。

保育園の取材で出会った「ねずみばあさん」と作家の視点

─── 取材費が渡されるってことは、すごく期待されていたんですね。

そうね。でも、社長から取材費が渡されたとき、古田さんと田畑さんは顔を見合わせて、「田畑さん、書けないかもしれないのに、どうしましょうか…」って相談するのね。田畑さんはあっけらかんとしてて、「そのときは返せばいいじゃないですか」って言ってたわ(笑)。

─── それで、取材にいかれたんですね。その取材で作品の中の重要な箇所が決まったんですよね。

「ねずみばあさん」と「おしいれ」。この2つは取材に行かなかったら生まれなかったと思います。でも、それは2回目の取材で、1回目に行った保育園はすでに別の出版社が取材をしていて、絵本も出ることが決まっていて…。結局取材費をそこで使っちゃったから2回目は古田さんと田畑さんのご近所にある保育園で先生方にお話を聞いたのです。子どもが悪いことやケンカをしたとき、罰としておしいれに入れているという話を聞いたのです。…もちろん、その当時の話ですよ。それで、普通の子はごめんなさいって泣き出すんだけど、あるとき頑張って、出てこない子がいて。先生たちがすごく困ったって話をしてくれたのです。それから、園でやっていた「ねずみばあさん」の人形劇がすごく面白くて、子どもたちが怖がるって話を聞いたのです。

─── 保育園での取材中のお二人はどんな様子だったのでしょうか?

保育園の取材はいつも園が終わった後、19時〜21時くらいに先生に集まってもらって話をうかがいました。大変なのはその後で、古田さんのお家で今日の取材のどういうことに心が動いたか、何が面白かったかを話すわけです。…でその後「酒井さんはどう?」って必ず聞かれるの。それが私にとってはとても大変でした。お二人が「お!」と思うことを言わなくては…と必死でした。

でも、私自身、その中で強烈に印象に残っていることがあります。保育園の先生が「おしいれから出てきた子どもが汗疹をかいていた」って話をしてくれたのです。それを私は、特に何も思わず聞き流したのですが、古田さんがしみじみと「子どもって汗疹かくんだよなぁ…」って言ったのです。古田さんにとって汗疹は子どものエネルギーの象徴のように感じたのです。私はそれがショックでした。「私の視点と作家の視点はこんなに違うのだ」って考えさせられました。古田さんのその言葉を、私は生涯忘れないと思います。

─── 確かに、普通の人なら聞き流してしまうような言葉ですよね…。
保育園に取材に行くことで絵本の進行もスムーズにいったんですか?

今、古田さんや田畑さんにお話をうかがうと、「『おしいれのぼうけん』は本当に早くできた」って言われます。そんなことはなかったのですが…(笑)。でも取材に行ったことで、原稿の進みは随分早くなったと思います。
ただ、最後のねずみばあさんが退散するところはなかなかうまくいかなかった。
私も何とか古田さんが続きを考えられるきっかけを作らなくちゃと思って、お家にうかがうたびに思いつく限りの案を話すのですけど、全然出てこなくて。それで、もう最終手段!と思って、四谷の旅館に缶詰になってもらいました。編集者人生初の缶詰だったわ(笑)。それで最後が出来上がりました。

─── そんな長いやり取りがあったとは…。文章をもらったときは感無量ですよね。

そうね。でも文章だけではまだ絵本ではない。しかも、もらった文章が80枚にも及ぶ長編で、安堵はしたけれど、それよりもこれをどうするか…新たな問題を抱えた気持ちが強かったです。

─── 80ページの絵本を作ることに戸惑いはなかったのですか?

それは当然ありました。古田さんにも申し上げました。「先生、80ページになっちゃいますよ、どうしましょう…」って。
でも古田さんは「うん。そうだね」、私が「定価1000円以上の本になりますね。」って言っても「…まあ、そうだよね」って。…私の心配なんて全然取り合ってくれなかったの(笑)。
結局、保育園で文章だけを先生に読み聞かせしていただいて、子どもたちがとても集中して聞いてくれていることがわかって、80ページで作ろうと話がまとまったのです。

─── 古田さんからの原稿を最初に読まれたときの田畑さんの反応はどうでしたか?

「自分は子どもたちに、こういう作品を届けたいんだ。この作品の絵を描くことができるのが、嬉しい」って言われました。それから「今までにない絵で描いてみたい」って実際に保育園に入園もされました。

─── それは取材ではなく?

もちろん、取材も兼ねてですけど、それよりも子どもたちの目線に立って、子どもたちの感じることをそのまま受けとめようとされていたのだと思います。だから子どもと一緒に遊んだり、相撲をとったり。それで、ぎっくり腰になってしまって、私が「あ〜…また完成が遅くなる〜」って嘆いたり(笑)。でも、ぎっくり腰で動けない間も、ずっと絵本にすることを考えて下さっていました。田畑さんってね、他の作品を見るとわかりますが、作品ごとに絵の画法を変えています。「絵本の絵は画家がテクニックを主張するものではなく、作品として、最もふさわしい描き方を探すことが大事だ」と考えられていて。だから、1冊の絵本の画法を決めるまでに2年も3年もかかることもあるのですが。ぎっくり腰のおかげで、じっくり考えてもらえたのです。

─── 『おしいれのぼうけん』は鉛筆のタッチがすごく印象的なのですが、画材はかなり特殊なものを使われているんですか?

当時の、一番安い画用紙と一番安い鉛筆を使って描かれています。「保育園の子が使っていたものと同じなんだよ」って田畑さんはおっしゃっていました。消しゴムを使うと紙がガサガサになっちゃうんだけど、「子どもたちの熱気が伝わる」とも、おっしゃっていました。カラーのページはクレパス。これも保育園の子どもたちが使っていたものですね。
完成した絵を見ると、田畑さんの絵が予想していたよりも大きくて、全部入れようとすると古田さんの文章が入らなくなってしまいました。
ですからまた合宿(笑)。田畑さんの絵を見ながら私が文字数を試算して古田さんに「先生、ここは余白がなくなっちゃうから、もっと文章を短くしてください」って申し上げる。結局、絵に合わせて古田さんが文章を全部書き直してくれました。

─── 文章の長さや語彙などは作家さんにとってすごくデリケートな部分でもあると思うのですが、古田さんと田畑さんで意見が違うことはなかったんですか?

たった1度だけ。それはねずみばあさんが退散するところでした。田畑さんが「ここは、子どもたちがずっと戦ってきたねずみばあさんが退散するところだから、小さい絵は描けない、全面絵にした方が良い」って言われて…。でも、古田さんは「ここは大事なところだから文章は必要だ」って。その夜はケンカ別れみたいにお開きになりました。私は「あ〜あ、これで苦労してきた仕事もお蔵入りだ。絵本は出来ないんだ」ってがっかりしました。でも、次の日にはもう一度話し合いをして、あの場面は完成しました。
意見が分かれたのはそのときだけ、他の部分では比較的スムーズに進んでいきました。最初に古田さんが「この作品は作家と画家と編集者の三位一体でやるから、いろいろアイディアを出してほしい」っておっしゃって、田畑さんもその言葉を受けて、アイディアを出されました。「現代を象徴する場面を入れたい」って田畑さんが高速道路のアイディアを出したときも古田さんはすごく喜んでくれて。でもその場面も、絵が大きいので、また古田さんが文章を削らなきゃいけなくなったんですけどね…(笑)。

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酒井京子(さかいきょうこ)

  • 1946年千葉県生まれ。1968年童心社入社。
  • 編集者として絵本と紙芝居の編集に携わり、ロングセラー『おしいれのぼうけん』、「14ひきのシリーズ」、『びゅんびゅんごまがまわったら』など多くの作品を担当する。
  • 1984年童心社編集長就任。1998年童心社代表取締役社長に就任。2001年「紙芝居文化の会」を多くの仲間たちと創立。オランダ・フランス・ドイツ・ベトナムなどで講座を開催するなど、日本のみならず世界への紙芝居の普及に力を注ぐ。現在取締役会長。

作品紹介

おしいれのぼうけん
作:ふるた たるひ たばた せいいち
出版社:童心社
ダンプえんちょうやっつけた
作:ふるた たるひ たばたせいいち
出版社:童心社


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