ちくま日本文学全集の『幸田文』(文庫版)で、絵本作家の安野光雅さんが「こころのふち」という解説を載せています。
その中で谷川俊太郎さんの言葉をこのように紹介しています。
「人間は線のように成長して、子供の時代をおきざりにしているのではなく、年輪のように成長する、
つまりこころの断面の真ん中には、だれにも子供の時代がある。と考えたほうがわかりやすい」
ケストナーは「大切なことは、自分自身の子どものころと破戒されることのない接触を持ち続けること。
おとなが、子どもと同じ人間だったことは、自明でありながら、不思議なことではことに珍しくなっている」とこんな言葉を残しています。
ある『子どもの詩の庭で』は、出版前から気になっていた詩集でした。
絵が『ふくろ小路一番地』のイーヴ・ガーネットです。
『ふくろ小路一番地』は下町の大家族で育つ子どもたちの生き生きした子ども時代が描かれた名作だからです。
こんな回りくどいまえがきを書いたのは、この『ある子どもの詩の庭』を読んでいた時に浮かんだのが、谷川さんの言葉であり、ケストナーだったからです。
あの『宝島』を書いたスティーブンソンは、この詩を書く時にきっと自分の子どもの心の庭に立ち返ったのでしょう。
子どもの心に交信し続けていたであろう瑞々しい感性の詩がちりばめられています。
私がこの詩集の中で繰り返し読んだのは、「この本を読む子どもたちへ」という詩です。
一節をご紹介しまししょう。
「その庭に今もいるのは、その子の心。今も、心はその庭にとどまって、こうして遊んでいるのです」。
私はなぜ今もこうして子どもの本に関わり続けているのでしょうか。
それは、自分の子ども時代を振り返り、そこに確かな両親の愛に育まれて育ったこと、そしていつも周りに本があり、辛い時寂しい時を本が支えてくれたからです。
子どもたちの心が育つ段階で、子どもの心が、すかすかな状態を大人が作ってはいけない。
そのように私は考えています。
この詩集を読んでいただくとカバーの絵とカバーをとった本体の絵が違います。
そして、カバーのあとがきには「ぼくの子どもの日々を喜びで充たしてくれた同じやさしい声でこの本を読んでもらえますように」と献辞があります。
この隅から隅までいきわたった装丁の本を、でき得るならぜひ身近な大人の声で子どもたちに読み聞かせをしてほしいと私は思うのです。
すべての子どもたちが大人になってから、心の泉の中から子どもの心を汲みだせますように、また柔らかい心で子どもの庭に立ち寄ることができますように。
そんな願いと祈りをこの本から感じました。